本日ツイッターで医療的ケアの件で少しつぶやいた。
つぶやきでは語れない思いをブログで綴ってみる。
僕たちはT君の医療的ケアを行っている。そこにいたるまでは紆余曲折?
とまでは行かないが、それなりの思いがあり 行っている。
T君がはるにれにきたときは医療的ケアを必要とする人ではなかった。昨年、誤嚥性の
肺炎を起こし入院した際に胃ろうになった。(胃からの栄養摂取)
最初の話では、口から食べれるようになるために、容態が安定するまで一時的に胃から
栄養を摂取するとの事だった。
しばらくすると、「T君はもう口から食べる事は難しいので、医療的ケアを
受けれる施設に入ったほうがいいでしょう。」とのことになっていた。
(もちろん容態が急変したわけではない。)
T君のお母さんは、はるにれ(作業所)に戻ってく来る事を熱望していた。
もちろん言葉を話せない本人の意思を汲み取って。
僕らも医療の知識は乏しかったが、T君ははるにれに戻れると思っていた。
当事者と当事者の家族と、支援者の気持ちを聞かず、病院側と行政側で勝手に
入所施設への準備が進められようとした。
T君に必要なのは、胃ろうの処置と吸引。僕は医療的ケアの経験はなかったが
日常生活で行っている人を知っていたので、はるにれで行うことに抵抗はなかった。
法人役員も本人の思いが「はるにれへの復帰」とあるのなら、
最大限できる事はしようとの事でまとまった。
うちがT君を受け入れる準備があることを病院へ伝えると、看護師長さんがやってきて
「命を軽んじるな!」的な 意味の話を遠まわしに、丁寧に伝えてきた。僕は悔しくて
「命を軽んじているつもりはない、支援者として僕たちは当事者の本当に
幸せな生き方を考えているだけだ。」という思いを丁寧に、言葉を選び、
握った拳を背中に回して答えた。
入所施設がすべて悪いとは思わないが、何も議論されないままに、
入所施設というのもおかしな話だと思う。
入所施設には入ってしまえば、もう食べれない人として処置され、
そのまま食事ができなくなってしまう。
そこにT君のお母さんも僕たちも抗ったのだ。
それからいろいろ、すったもんだはあったけど、退院してはるにれへ戻り
あわせて4月から介護職にも医療的ケアができることになり
T君の医療的ケアは始まった。
僕らの支援が一番!との傲慢な気持ちでいるのはない。
できる範囲か、できない範囲かは十分に検討した。
ただ医療的ケアについては、家族なら誰でもできるのに、
技術の高い介護師であっても他人ならできない。
その程度のものだと思った。 ようは責任問題なのだ。
医療も行政も責任を取りたくないだけなのだと僕は思っている。
T君の今後に医療も行政も責任を取りたくないから、
地域でリハビリして食べれるようになるよりは、
入所施設で安定して、(ただ生きているということのみ)暮らしてください。
との事だと僕は思う。
だから僕らが責任を持った。それは何度も言うように傲慢な気持ちではなく、
そこにはご家族との信頼関係もあったし、何よりT君をよく理解したうえで、
T君の地域生活最後の砦として責任を請け負ったのだ。
そんな気持ちで医療的ケアを行っている事業所は多いのではないだろうか?
医療的ケアを行っていると、行政からちょいちょい電話がかかってくる。
「○○のような人なんですけど医療的ケアやってもらえませんか?」と
肝心なところは責任取らないくせに勝手なものだ。
今T君は少し食べれるようになった。誤嚥性の危険性背負いつつも
少しづつ食べている。
住み慣れたこの地で顔見知りのみんなと生き生き過ごしている。
僕らは彼の人生に責任を負った以上安心はしていられない、
日々勉強と技術の研鑽をおこなわなければ。
医療的ケアはちょっとした知識と技術があればそんなに問題ないと思う。
責任をとるかとらないかだ。
とは言っても、大勢の利用者とスタッフを抱えれば
簡単に責任というのも難しいかもしれない。
しかし、難しいことはわからないが一生懸命、
当事者さんのためにできることを行っていれば
どんなことがあっても悪いほうへは転ばないのではないか?
いや転ばないと信じたい。
僕はそう思う。それぐらいの希望がなければこの障害福祉の世界は救われない。
命を軽んじているつもりはない。自分自身に問いかける日々は続く。
ぐだぐだ長くなってすいません。
鳥居
胸打たれる内容でした。希望は人を成功に導く信仰である。希望がなければ何事も成就するものではない。バーイヘレンケラー