すごく遅くなってしまったのですが、はるにれのブログにも送別会の様子が書かれていましたが、ポポロの方からもお別れのブログをど~しても書きたくなったので、書きます。
Yさんは 先月、県外へ引っ越す事になりお別れする事になりました。
Yさんは、はるにれとポポロを利用していました。
思えば、始まりはまだ僕がはるにれに在籍していたころのお話です。
Yさんは肺炎を患った時期があったのですが、障がいがあるという理由でなかなか病院が見つからず、結局とある病院の精神科病棟で入院生活を送ったという事がありました。
その時は親御さん2人で仕事をしながら、不眠不休のような形で看病をするしかなく、何とかしたいという想いから、鳥居さん、糟谷さんや私がボランティアの形で少しでも負担が和らげばと、しばらく肺炎が回復するまで親御さんと一緒に看病していたのでした。
突然の話から、心配ではあったものの、病院にお見舞いに行くという経験が不足している私は、病院に行くというだけでドキドキしていました。
地図を片手に見知らぬ土地の大きな病院へ行き、怪訝な目で見られながら、ナースステーションで受付を済ませ、Yさんの病室へ行ったあの日。
管を肺に通した状態のYさんと、Yさんの親御さんが出迎えてくれました。
病室に入った私にYさんは体格そのまま迫力満点の睨みをきかせてきたので、他人行儀な感じで会釈したのを覚えています(笑)
あと、お父さんがどんなに遠慮してもパンとサンドイッチの差し入れをくれたことも良い思い出。
そんなYさんとの挨拶をそこそこに、ほとんど話をしたことのないYさんのお母さんとのひょんな会話が、Yさんとの外出へとつながっていくとはこの時は露とも思わず、病室が暗くならないようにだけ、Yさん家族とお話をしていました。
糟谷さんと私だけで2週間くらいは行ったでしょうか。
行くたんびにYさんも少しずつ元気になっていき、初めのうちは気の向かない食べ物は一切食べなかった偏食のYさんも、長い病院生活に郷に入っては郷に従え、というか、生きていけないと思ったのか、普段なら避けて食べない物でも、嗚咽を漏らしながら食べていました。
生きるために苦手なものでも必死で食べていたそんなYさんに悪いですが、どうしても可笑しかったのを覚えています(笑)
そして、そんな何度目かの来院時のある日、「普段Yさんは週末をどのようにすごしているんですか?」という話になりました。
はじめのうちはヘルパーさんとどこへでも出掛けていたそうですが、ある日を境に突然電車に乗車することを拒否し始めて、それ以来は毎週土曜日に1時間30分ほどヘルパーさんと近所にポテチを買いに行き、公園で食べて帰ってくるだけ、という事になってしまったそうです。
それはそれで本人がよければ良いのですが、以前は色々なところに電車やバスを使いヘルパーさんとお出かけができていたという話がひっかかり、「うちのポポロでヘルパーを使えばなんとかなりませんかね」という話になりました。
笑顔にしたいとか喜んでもらいたいとかそんな想いはもちろんあったのですが、無論何か根拠があったわけではなく、その場でひらめいただけのことでした。
そしてYさんも無事退院。退院した時の体重は何キロ痩せていたんでしょうか。
僕は腕の怪我の事もあり、わがままを聞いてもらって負担の少ないヘルパーステーションの方で働かせてもらう事になりました。
その折にふと、Yさんが入院中の母さんとの会話を思い出しました。
「ヘルパーステーションポポロならいけるんじゃないか」根拠のない自信みたいなのはありました。
ふわ~っと鳥居さんにも相談してみると、そこはホッとスタッフから異様に愛されていたYさん。
「いいんじゃない中井君!」やる気満々の鳥居さん。
「大丈夫!?電車乗れないんでしょ!?」「っていうか出不精って聞いたけど!?」そんなスタッフからの辛辣な言葉。
「いや、不安だ。誰よりも不安だ。腕のこともある。Yさんは180㎝に100㌔をゆうに超えるのだ。調子の悪い時の様子だってもちろん知っている。怖い。正直、たいした考えがあったわけじゃない。勝算もない。勝算ってなんだ。誰よりなによりとにかく不安だ。いや、ただ、喜んで欲しかったから。何回でも言う。たいした考えがあったわけじゃない。そう、たいした考えがあったわけじゃない。病院の一室で親御さんの喜ぶ顔が見たかった。Yさんにもっといろんな場所へ行っていろんな事を感じて欲しかった。それぐらいだ。そうだそれぐらいだ。たいした考えじゃないか。そうだそれでいいだろう。なんだこのやろう。」
堂々巡りの思考回路でした。
、、、そして、始めてのガイドの日。
「家から出ないかもしれない」という事前の情報もあったので、少しでもそうならないように、焼肉やラーメンなどの美味しそうなものの画像をパソコンで印刷してラミレートしたものを持参して、Yさん宅へ行きました。
ドキドキだったのを覚えています。
初めてのYさん宅。
家を出るのは容易だったので拍子抜けしたのですが、重た~い空気の道中だったのを覚えています(笑)
そして最難関の電車でしたが、一度耳をふさいだくらいでけろっと電車に乗車してくれました。
一つ覚えているのが、優先座席の五人くらいは座れる椅子の両端に、スマホを片手に持った男性が二人座っていたのですが、その椅子の真ん中に座った時。
Yさんの体重で椅子がへこみすぎて、両端の男性がYさんにスマホを片手に抱き着きそうになってしまったのです。
その時の男性の驚きたるや、地震でも起きたかのようでした。
結局、活動が始まると心配していたようなことは全然なく、元気に帰宅できました。
ここからYさんと私の毎月一度の外出活動が始まりました。
ある時は大阪市立美術館へ行き、展示物の説明をしようとしたら、間違えて解釈して触ろうとしてしまい慌てて止める私と、そしてそれをタイミング悪く警備員の方に見られていて、入って20秒ほどで注意をされてしまい、Yさんもなぜ怒られたのかわからず調子を崩してしまったり。
ある時はラーメンを食べる時に、旨く箸が使えずに手で熱い熱い、口ではふはふとなってしまい私に笑われてしまったり。
ある時はバスに乗る直前に沈黙の5秒の後、トイレに駆け込む羽目になってしまったり。
満員のバスでは大きな体を精いっぱいこぢんまりとさせていたり。できてないぞと私に突っ込まれたり。
ある時は真冬でもロンT一枚で額にうっすら汗を浮かべるYさんに「おふろでも行きましょうか」と、提案したらまさかの大怒りで、私は素知らぬ顔でしばらくお茶を濁すことしかできなかったり。
ある時はお風呂にはまって狂喜乱舞してしまったり。
ある時は皆で海に出かけたのはいいものの、暑さのあまり大泣きしてしまったり。
ある時は公園で普通に楽しんでいるだけなのに、体に声量、その他もろもろ規格外のYさんなので、皆から注目の的になってしまったり。
ある時は王将で大盛の焼き飯を一緒に食べたり。
ある時はホットの大運動会でずーっとずーっとずーっと、とーっても楽しそうに参加したり。
ある時は新年会でおそらく今後一度も使わないであろう、マフラーを景品で当てたり。
ある時はボーリング大会でブービー賞で大量にお菓子を貰ったり。
思い出が尽きないけれど、もっともっと色々なところへと連れて行ってあげたかったし、行きたかったです。
最後の活動の帰り道、見晴らしのいい公園で報告書を書いていたら、突然Yさんの調子が悪くなり、泣き始めました。
その時は「えーーっ」とか、「時間ないし、あと30分で家やで。親御さんになんて説明を、、」と、そんなことばかり考えて帰宅したのですが、後にも先にもただただ泣きじゃくるという様子を外出している時に見かけたのはその時だけだったのです。
色々な感情が溢れだしたんですかね。
本当に本当に色々な所へ出かけました。
あまり写真に残す方ではないので、バラエティに乏しいかもしれませんが、最後にYさんとの思い出を写真と共に振り返りましょう。
電車でパチリ。このパーカーはオシャレしているので、ボーリングのイベントの時ですね。
結果はブービー賞で景品にお菓子を一杯もらっていました。
初めは不安で不安で、、。
これは万博にて。
食の大博覧会のイベントに参加して、もりもり食べました。
似合うでしょう。
串がうまく扱えず(笑)
お似合い。
キャップとTさんとスリーショット。西九条の方にお風呂に入りに行きました。
とってもご機嫌で、入浴されていました。
これしかなかったホッと大運動会での一枚。
新年会での一枚。
ポーズを執拗に要求した一枚ですね。(笑)かならずこの顔をしてくれました。
吹田のお祭りでの一枚。
とにかく愛されていたYさん。
Yさんと出かけた日々に意味を持たせられるようなヘルパーになりたいです。
元気でなー!! 中井